『殷』の誕生 - 『夏』を滅ぼして興ったとされる中国最古の王朝
- 2014/08/17
- 05:25
紀元前16世紀頃から前11世紀半ばにかけて黄河中流域に存在した古代中国の王朝。
考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。
日本ではこの「殷(いん)」王朝が「周(しゅう)」王朝に倒される様を仙人などの架空の存在を絡めて描いた「封神演技」の舞台として有名。
「殷(いん)」という国名は後の「周」などによって使われた他称であり、自称では「商(しょう)」を名乗っていたとされる。
そのため現在の中国では「殷」ではなく「商」、あるいは「商殷」と呼ばれる。
歴史家の「鄭樵(ていしょう)」が書き、1161年に本となった「通志」によれば、「商」という名前は「殷」王朝の祖である「契(せつ)」が「商」という地域を領地に与えられたのが由来としている。
つまり国が興る前から「商」という地域は存在しており、「商」王朝はその土地名をそのまま王朝名へと使ったのだと言う。
中華人民共和国河南省安陽市にある「殷」の首都跡遺跡である「殷墟」。
そこから発見された資料から、「殷」王朝が自分達の都のことを「商」あるいは「大邑商」と呼んでいたことが確認されている。
20世紀初頭まで「殷」王朝は伝説上の王朝とされていた。
しかし1928年に今の「殷墟」の発掘が始まり、それが紀元前13世紀から前10世紀頃の遺跡であることが分かる。
また亀の甲羅などに文字を書いた「甲骨文字」が出土し、この遺跡が「殷」王朝のものであり、「殷」が実在していたことが確認された。
伝説上の存在ではあるが、「殷」の始祖は「契(せつ)」なる人物であるとされている。
彼は神話上の存在である帝「嚳(こく)」の次妃(二番目の妻)であった「簡狄(かんてき)」が妹と共に水浴びをしている時、ツバメが落とした五色の珍しい卵を食べたために生まれたとされている。
後に「夏」王朝(伝説上の国であり実在は証明されていない)の帝となる「禹(う)」が行った治水を助けた功績により、「商」地域を当時の帝である「舜(しゅん)」より与えられ、同時に「子(し)」の姓を賜っている。
だが紀元前91年頃に書かれた「史記」によれば、「契」は「禹」が「夏(か)」王朝を建設する際に功を立てたことで領地を与えられたのだとしている。
ちなみに「舜(しゅん)」の前の帝である「堯(ぎょう)」は「契(せい)」と腹違いの兄弟とされており、それが事実であるならば元々「契」は身分の高い人物であったようだ。
この「子」姓一族は続く始祖「子契(し・せつ)」から「子履(し・り)」までの間に8回の遷都をしながら、代々「夏」王朝に仕えていた。
- 契(始祖)
- 昭明 - 契の子
- 相土 - 昭明の子
- 昌若 - 相土の子
- 曹圉 - 昌若の子
- 冥 - 曹圉の子
- 王亥(高祖) - 冥の子
- 王恆 - 王亥の弟
- 上甲微 - 王亥の子
- 報丁 - 上甲微の子
- 報乙 - 報丁の子
- 報丙 - 報乙の子
- 主壬 - 報丙の子
- 主癸 - 主壬の子
- 天乙(子履、あるいは成湯) - 主癸の子
だが14代目の「子履」の時代(紀元前1600年頃)。
一般的には「子履」は「天乙」または「湯王」の名前の方がメジャーではあるが、ここでは「子履」で統一する。
「子履」は現在の河南省商丘市に当たる「亳(はく)」を都としていた。
ちなみに「殷」王朝は首都を六度移したと「史記」には書かれているが、現在発見されている「殷墟」はその最後の都であると考えられている。
この頃の「夏」王朝の帝である「桀(けつ)」は徳ではなく、武力によって諸侯や民衆を支配していた。
発端は「有施(ようし)」氏を討伐した際に「末喜(ばっき)」という名の美女を捕らえ、それを自分の妃としたことである。
「末喜」に溺れた「桀」は酒を溜めて造った池に船を浮かべ、「肉山脯林(にくざんほりん)」と呼ばれる肉を山のように持った豪華な宴会を催すなどした。
さらに政治を省みることもなくなり、「夏」の国力は衰えていった。
「子履」は「伊尹(いいん)」という賢者に使者を送り丁重に迎え入れ、帝「桀」を支える者として推挙したが帝は彼を受け入れず結局「伊尹」は「子履」の元へと戻ってきた。
帝「桀」は人望を失い、諸侯の支持は有力諸侯である「子履」へと集まる。
そんな折、「子履」は「桀」によって捕らえられ牢獄へと繋がれてしまう。理由は帝が「子履」の人望に嫉妬したとも、帝に諫言したために殺された「関龍逢」という人物の死を「子履」が悼んで弔ったことに激怒したからとも言われている。
やがて「子履」は許され釈放されるが、牢から出た彼は自分を支持する諸侯達を集め、賢人「伊尹」の力を借りて、帝「桀」と敵対することを選択する。
これを中国では「鳴条の戦い」と呼ぶ。
紀元前239年頃に書かれた「呂氏春秋」によると、この戦いには「子履」軍として決死隊が6,000人、戦車も300両が投入されたと書かれている。
戦いに敗れた「桀」は「鳴条」(現在の山西省安邑)へと逃れたが、「吾悔不遂殺湯於夏台使至此(湯(子履)を捕らえた時に殺さなかったせいでこうなってしまった)」と嘆いて死ぬ。別の説では「桀」は「末喜」と共に南方へと逃れて死んだとも言う。
しかし、この帝「桀」の一連の話は、「殷」王朝の最後の王である「紂王(ちゅうおう)」のそれと流れから最後まであまりに似通っており、後世になってから作られた伝説である可能性が非常に高い。
こうして「夏」王朝を滅ぼした「子履」は諸侯の支持を受けて新しい王となる。
そうして興した新しい王朝こそが「殷(商)」である。
さて、話は変わって「子履」の別名である「天乙」。
この時代の王は太陽と同格であるとされ、その名も太陽から取られていた。
古代中国の世界観では太陽は10個存在し、1日に1つの太陽が世界を照らし、10日で一巡するのだと考えられた。
その10個の太陽の名前が「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」であり、これを「十干(天干)」と呼ぶ。
「天乙」の名前はここから取られており、即ち「乙」の太陽が昇った日に生まれたので「乙」の字を取って名前にしたのだ。
同じ太陽の日に生まれた王は、太陽の名前(日名)の前に「大」「中」「小」を示す文字をつけて区別する。「天乙」の場合は「天」がそれに当たる。
つまり「天乙」は「子履」が「殷」王朝の王になってからの名前だと考えられる。
しかし、現在では「殷」王朝は非世襲制で、必ずしも王の子供が王位に就いていたわけではないことが判明している。
「殷」は複数の氏族からなる連合体であり、少なくとも二つ以上の王族(氏族)が存在していたと考えられている。
それを受けて東大名誉教授である松丸道雄は「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」は「殷」に存在した氏族の名前ではないかという仮説を唱えている。
▽参考資料▽
- 殷 - Wikipedia
- ~殷王朝~
- 殷とは - Wiktionary日本語版(日本語カテゴリ) Weblio辞書
- 不思議館~古代の不思議~ 中国最古の王朝
- 鄭樵 - Wikipedia
- 殷墟 - Wikipedia
- 夏 (三代) - Wikipedia
- 史記とは
- 天乙 - Wikipedia
- 簡狄 - Wikipedia
- 堯 - Wikipedia
- コク - Wikipedia
- 契 (殷) - Wikipedia
- 桀 - Wikipedia
- 鄭州商城と鄭州二里崗遺跡は同じ(場所)ですか? - Yahoo!知恵袋
- 夏 (三代) - Wikipedia
- 夏台とは - 歴史民俗用語 Weblio辞書
- 中国の夏朝にでてくる悪女、末喜の父である有施氏ですが、「有施氏」は日本語で何... - Yahoo!知恵袋
- 桀と紂
- 伊尹 - Wikipedia
- 呂氏春秋 - Wikipedia
- 湯王、桑林の野に祷る(十八史略 - 殷[湯王])
- 姓氏①
- 天乙 - Wikipedia
- 末喜 - Wikipedia
- 諱(いみな)と、字(あざな)の違いを教えてください。 - Yahoo!知恵袋
- http://alachina.oiran.org/1ka-jinbutu-menu.html
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