コメント
あのー。
そもそもロリコン(ペドフィリアも)は性嗜好、すなわち性癖に類するもので、性的指向とは全く別のものですよ。
性的指向は性的興味が異性、同性、両性どれに向かうかを表す為の言葉です。
同類にしたら勿論(恐らく同性愛者以外からも)怒られますよ。
他人の無知をどうこういう前に、ご自身も勉強されたらどうですか?
そもそもロリコン(ペドフィリアも)は性嗜好、すなわち性癖に類するもので、性的指向とは全く別のものですよ。
性的指向は性的興味が異性、同性、両性どれに向かうかを表す為の言葉です。
同類にしたら勿論(恐らく同性愛者以外からも)怒られますよ。
他人の無知をどうこういう前に、ご自身も勉強されたらどうですか?
広い意味では性的嗜好も性指向に含める言説あり、それに同意するところがあったので両方を含んだ意味で使っています。
「指向」という言葉は「事柄がある方向に向く」ということであって、「性指向」という言葉の場合は「性の欲求の方向性」という意味です。(私はそう解釈しています)
その「性的指向」から「性的嗜好」を排除するのはどうかと思いまして。
「性嗜好」と呼ばれるものだって、狭義の「性指向」と同じく本人には制御できない感情なわけですし。
どの性別を愛するかということは「指向(方向性=どうしようもないこと)」で、相手に求めたり愛する相手の傾向といった問題は「嗜好(好み=意思でどうにでもなること)」とされてしまうことに違和感を覚えてしまいます。
少なくとも私はどうしても気になります。
そういう意図の元に、意識的に「性指向」に「性嗜好」を含んで使いました。
ただそういう説明をせずにいきなり使ったことは私の配慮の足りないところでした。
出来れば今後も「性的指向」という言葉には「性的嗜好」を含んで使っていきたいと思っていますが、その前にはちゃんとこうした説明を入れて使っていきたいと思っています。
「指向」という言葉は「事柄がある方向に向く」ということであって、「性指向」という言葉の場合は「性の欲求の方向性」という意味です。(私はそう解釈しています)
その「性的指向」から「性的嗜好」を排除するのはどうかと思いまして。
「性嗜好」と呼ばれるものだって、狭義の「性指向」と同じく本人には制御できない感情なわけですし。
どの性別を愛するかということは「指向(方向性=どうしようもないこと)」で、相手に求めたり愛する相手の傾向といった問題は「嗜好(好み=意思でどうにでもなること)」とされてしまうことに違和感を覚えてしまいます。
少なくとも私はどうしても気になります。
そういう意図の元に、意識的に「性指向」に「性嗜好」を含んで使いました。
ただそういう説明をせずにいきなり使ったことは私の配慮の足りないところでした。
出来れば今後も「性的指向」という言葉には「性的嗜好」を含んで使っていきたいと思っていますが、その前にはちゃんとこうした説明を入れて使っていきたいと思っています。
よく嗜好と指向は違うという人は指向>嗜好という序列化する傾向が強いと思う。
指向と嗜好は違ってもいいがだからと言って指向側が嗜好側を差別するのはおかしいと思う。
これで私は同性愛者への見方を変えました。
同性愛者がよく差別反対というが「自分たちだって嗜好側を差別してんじゃん」と残念ながら多くの人を不愉快にさせるのも自由です。
もしジミヘンさんの意見やブログが多くの人を不愉快にさせたらジミヘンはブログをやめなければなりませんか?違いますよね。
自由とは多数のためにありません。少数のためにあります。何故ならば多数が認める思想や宗教や価値観、または好むものはなにもしなくても弾圧される心配ははないからです。
少数の人の信奉する宗教や思想や言論などはいつでも弾圧される危険にあります。
多勢に無勢です。
例えばほぼクリスチャンの国ではキリスト教は弾圧されないです。その国で、イスラム教や仏教などを信奉すれば弾圧される可能性はあるでしょう。キリスト教では偶像崇拝は禁止なのでその国では仏教信仰は大多数の人を不愉快にさせることでしょう。
しかし自由権が保護されていれば弾圧は免れますが多数を不愉快にさせるから禁止では弾圧される
指向と嗜好は違ってもいいがだからと言って指向側が嗜好側を差別するのはおかしいと思う。
これで私は同性愛者への見方を変えました。
同性愛者がよく差別反対というが「自分たちだって嗜好側を差別してんじゃん」と残念ながら多くの人を不愉快にさせるのも自由です。
もしジミヘンさんの意見やブログが多くの人を不愉快にさせたらジミヘンはブログをやめなければなりませんか?違いますよね。
自由とは多数のためにありません。少数のためにあります。何故ならば多数が認める思想や宗教や価値観、または好むものはなにもしなくても弾圧される心配ははないからです。
少数の人の信奉する宗教や思想や言論などはいつでも弾圧される危険にあります。
多勢に無勢です。
例えばほぼクリスチャンの国ではキリスト教は弾圧されないです。その国で、イスラム教や仏教などを信奉すれば弾圧される可能性はあるでしょう。キリスト教では偶像崇拝は禁止なのでその国では仏教信仰は大多数の人を不愉快にさせることでしょう。
しかし自由権が保護されていれば弾圧は免れますが多数を不愉快にさせるから禁止では弾圧される
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです