宗教をやると現実と仮想の境が分からなくなる
- 2014/07/27
- 09:09
ボストン大学、香港大学、ハーバード大学が発表した研究結果によって、信心深さが子供の認識に与える影響が明らかになった。
研究チームは3人の主人公がそれぞれ困難な状況から救われる物語を1人につき3パターン(合計9話)用意し、米マサチューセッツ州ケンブリッジ市で暮らす5~6歳の子ども66人にランダムな順番で話して聞かせた。
パターン①は主人公が自分自身の工夫や努力によって困難を脱する現実にもあり得そうなストーリー、パターン②は主人公が「神の聖なる介入」によって救われる宗教的ストーリー、パターン③は、主人公が魔法によって救われるファンタジー的ストーリーだ。
たとえば、海に投げ出され、クジラに食われそうになる「ヨナ」という男の物語の場合、①ではヨナが間一髪でクジラをよけ、自力で泳いで逃げる、②ではヨナがそれまでの不信心をわびて神に祈り続けた結果、クジラの口から吐き出される、③ではヨナが魔法を使ってクジラの体外へ出るというストーリーになっている。
非宗教的家庭の子どもは、いずれのパターンでも主人公は架空の人物と認識していたが、教会に通う習慣がある家庭の子どもや、宗教系の学校に通っている子どものの場合、パターン①では主人公を架空の人物と認識したものの、パターン②ではそう認識しておらず、パターン③でもその傾向が強いことが判明した。
研究チームは今回の結果について、「宗教的観念に日々さらされると、宗教的な物語だけでなく、ファンタジーにおいても現実と虚構の区別に大きな影響が出る」の述べ、「育った環境により、物語がもたらす情報の処理や分類の仕方に差が出ることが示唆された」と結論づけている。
これはある意味、当然の結果だ。
宗教的家庭であるということは、聖書などの話を現実のものとして教えられているのだから、彼らにとって神の奇跡などは実在して当然。
興味深いのはパターン①の主人公が自力で困難を解決する物語をファンタジーだと思うことと、神の奇跡ではなく魔法による解決の方をより現実色の強いものだと受け止めていることだ。
それは単なる想像ではあるが、宗教的教育を受けた彼らは神の存在を認識しているものの、その存在が自分達を助けてくれるということに対しては懐疑的なのではないだろうか。
キリスト教的観念であるならば不幸などは「神の試練」であるとされるが、だからといって喜んで不幸に会いたいものではないだろう。
少しテレビに目を向ければ、様々な事件が起こっている。そんな状況を見て、子供ながらに「神の奇跡は容易く起こるものではない」という考えが自然と生まれてくるのは仕方がないことだ。
だが一方で彼らは宗教的教育を受けたことにより「神の奇跡」そのものの存在は信じている。
それに似た力を任意に行使できる「魔法」は、子供達にとってより身近なのだと思う。
何しろ「神の奇跡」は神の大いなる意志によってなかなか使われないが、「魔法」を使うのはその行使者の意志一つなのだから、それでピンチの状況を脱出するのも「神の奇跡」よりも余程現実味がある。
子供達はそんな風に判断したのではないかと私は予想する。
元になった論文には載っているかもしれないが、出来れば子供達がなぜそんな判断をしたのかについて聞き取り調査などをして欲しかったと思う。
Photo by: woodleywonderworks
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