ツタンカーメンの死因は骨折である
- 2013/02/04
- 00:00
世界で一番有名な古代エジプトのファラオであるツタンカーメン。
ツタンカーメンは今とは違い、当時はそれほど有名な存在ではなかったようだ。
死亡当時、ツタンカーメンはなんと19歳の若者。
体は大柄でも小柄でもない中肉中背の168センチ。親知らずは横から生えていた。
ただ違っていたのは、その後頭部が壁画などに描かれる王族そのままに細長く伸びていたということ。
一説には王族は子供の頃から布を締めつけ頭を変形させる習慣があったのだともいう。
棺の中に収められたツタンカーメンのミイラには左足が骨折した痕があった。
膝蓋骨(膝の皿)が外れており、足首には当時のギブスのような器具が装着されていた。
この怪我が彼の死に繋がった。
当時の医療技術では、この大怪我は命に関わるものだったのだ。
(彼のミイラには胸骨も無かったが、それが怪我によるものか、それともミイラ化する際の処置によるものかは不明)
なぜ彼がこのような怪我を負ったかは明らかになっていない。
戦車から落馬したとも、敵に受けた傷だとも言われている。
膝の骨に治り始めている痕跡があることから彼は怪我の後、1日から5日の間生きていた。
しかし、怪我が完治することはなく彼の短い王政は幕を閉じる。
だが大変だったのは、むしろその後のようだ。
何しろ19歳の王がいきなり死亡するとは、誰も思っていなかった。
彼の墓はまだ完成しておらず、そこに収めるべき宝物の類も用意されていない。
そこで当時の神官アイは一計を講じる。
彼はツタンカーメンの父であるアクエンアテンの為の棺や財宝を、急遽ツタンカーメンの物に設え変えることにしたのだ。
なぜそんなことが可能になったかといえば、先王であるアクエンアテンがそれまでの多神教を否定し、一神教へと改革したためである。
ツタンカーメンの治世に国家宗教は元の多神教に戻され、それもあって暗君とされた父王は闇へと葬られようとしていた。
そのため先王のために用意されていた物を、ツタンカーメンのために転用することが可能だった。
その証拠に彼の棺や厨子には本来アクエンアテンの物であったという痕跡が多数残っている。
またツタンカーメンのミイラが納められていた石棺の頭側の女神のレリーフは、装飾品までしっかりと彫られ、腹には臍まである。
だが一方で反対の足側にある女神のレリーフの装飾品は絵で描かれているだけでヘソもない。
途中から急突貫で用意されたことが窺える。
彼の内臓を入れる小さな棺も、アクエンアテンの妻であるネフェルティティの物が再利用されている。
ニコラス・リーブス博士によればツタンカーメンの墓に納められた副葬品の8割が別人の物であるという。
まさにツタンカーメンの栄華は一瞬の物だった。
その墓も急拵えで、次の王位は彼の埋葬を指揮した神官アイによって引き継がれている。
彼の存在が我々の間で有名なのは、単純に完全に近い形で発見されたファラオであるからに他ならないのだ。
ツタンカーメンは今とは違い、当時はそれほど有名な存在ではなかったようだ。
死亡当時、ツタンカーメンはなんと19歳の若者。
体は大柄でも小柄でもない中肉中背の168センチ。親知らずは横から生えていた。
ただ違っていたのは、その後頭部が壁画などに描かれる王族そのままに細長く伸びていたということ。
一説には王族は子供の頃から布を締めつけ頭を変形させる習慣があったのだともいう。
棺の中に収められたツタンカーメンのミイラには左足が骨折した痕があった。
膝蓋骨(膝の皿)が外れており、足首には当時のギブスのような器具が装着されていた。
この怪我が彼の死に繋がった。
当時の医療技術では、この大怪我は命に関わるものだったのだ。
(彼のミイラには胸骨も無かったが、それが怪我によるものか、それともミイラ化する際の処置によるものかは不明)
なぜ彼がこのような怪我を負ったかは明らかになっていない。
戦車から落馬したとも、敵に受けた傷だとも言われている。
膝の骨に治り始めている痕跡があることから彼は怪我の後、1日から5日の間生きていた。
しかし、怪我が完治することはなく彼の短い王政は幕を閉じる。
だが大変だったのは、むしろその後のようだ。
何しろ19歳の王がいきなり死亡するとは、誰も思っていなかった。
彼の墓はまだ完成しておらず、そこに収めるべき宝物の類も用意されていない。
そこで当時の神官アイは一計を講じる。
彼はツタンカーメンの父であるアクエンアテンの為の棺や財宝を、急遽ツタンカーメンの物に設え変えることにしたのだ。
なぜそんなことが可能になったかといえば、先王であるアクエンアテンがそれまでの多神教を否定し、一神教へと改革したためである。
ツタンカーメンの治世に国家宗教は元の多神教に戻され、それもあって暗君とされた父王は闇へと葬られようとしていた。
そのため先王のために用意されていた物を、ツタンカーメンのために転用することが可能だった。
その証拠に彼の棺や厨子には本来アクエンアテンの物であったという痕跡が多数残っている。
またツタンカーメンのミイラが納められていた石棺の頭側の女神のレリーフは、装飾品までしっかりと彫られ、腹には臍まである。
だが一方で反対の足側にある女神のレリーフの装飾品は絵で描かれているだけでヘソもない。
途中から急突貫で用意されたことが窺える。
彼の内臓を入れる小さな棺も、アクエンアテンの妻であるネフェルティティの物が再利用されている。
ニコラス・リーブス博士によればツタンカーメンの墓に納められた副葬品の8割が別人の物であるという。
まさにツタンカーメンの栄華は一瞬の物だった。
その墓も急拵えで、次の王位は彼の埋葬を指揮した神官アイによって引き継がれている。
彼の存在が我々の間で有名なのは、単純に完全に近い形で発見されたファラオであるからに他ならないのだ。
参考資料
『少年王ツタンカーメン:死の謎に迫る(原題:King Tut's Curse)』
『ツタンカーメンのおくりびと(原題:Burying King Tut)』
『少年王ツタンカーメン:死の謎に迫る(原題:King Tut's Curse)』
『ツタンカーメンのおくりびと(原題:Burying King Tut)』