クェス・パラヤはつまりピノコなんだろう
- 2007/12/21
- 06:33
ええ、そうです!
またガンダムの話ですよ!
何が悪いか!
そんなわけでクェス・パラヤですよ。
クェスがアムロやシャアに何を求めていたのかについての話。
またガンダムの話ですよ!
何が悪いか!
そんなわけでクェス・パラヤですよ。
クェスがアムロやシャアに何を求めていたのかについての話。
アムロやシャアは映画の最後で「クェスは自分達に父親を求めていた」といっているのですが、私にはそうは思えません。
もしクェスが単純に「父親」を求めているのなら、アムロの元から去る理由がありません。
アムロの現実論よりシャアの理想論に共感したという部分も多くあると思いますが、クェス自身はその理由を「アムロの傍にはチェーンがいたから」と言っている。
しかし、それを言えばシャアの傍にだってナナイがいたのだ。
ところでエディプスコンプレックス(女性に特定する場合はエレクトラコンプレックスとも)を知っているだろうか。
ちなみに今回の記事では、用語を意図的に誤用している部分もあるので、詳しくは自身で調べていただきたいです。
エディプスコンプレックスとは、噛み砕いて言うと女児が父親に対して性的な愛情を抱くことである。しかしこれ自体は、基本的にはどんな女児も5歳ぐらいの頃に経験する感情ではあるのだ。
要するに「私、大きくなったらお父さんと結婚する」といい、妙におしゃまなお化粧やお洒落に興味抱くアレである。
恐らく、クェスはこのエディプスコンプレックスを何らかの理由で幼少期に解消することができなかったに違いない。
この時期にクェスの父親が仕事、あるいは別の理由で彼女の傍にいなかったか、あるいは幼い彼女の性的愛情に父親が応えてしまったのではないかと思われる。
これが解消されないままに大人になった場合、欲望の自制が難しくなってしまう。
そして男性に父親の役目と恋人の役目を同時に求めるのである。
クェスを見ていると、どうもこのエディプスコンプレックスを解消しないままに思春期を迎えているように思えてならない。
エディプスコンプレックスの女児にとって父親とは「理想の男性」であり同時に「理想の父親」である。子供にとって「父親」というのは自分のそれ以外には存在しないので、当然ながら自分の父親こそがオンリーワンでありナンバーワンである。
だがクェスは年を経ることで知恵がつき、世間を知り、自分の父親が必ずしも最高の存在ではないことに気付いてしまった。
父親に失望したクェスはそこで、家庭の外に新しい「理想の父親であり男性」を求めることになる。
最初に目を付けたのはアムロだったが、彼はクェスの「理想の父親であり男性」にはなれなかった。
すでにチェーンという女性がいるアムロは「女」としてクェスを必要としなかったし、彼にはまだ「子供」としてのクェスを庇護するだけの余裕はなかった。
あるいは別解釈として。チェーンのアムロに対する過剰な依存と崇拝を見ていると、彼女もまたクェスほど重度でないにしろ、エディプスコンプレックスを解消できていないまま大人になったのではないかと疑ってしまう。
その場合、すでにアムロには「子供にして恋人」がいるわけで、クェスにはそこに入る隙間はなかったのである。
次に目を付けたのはシャアだが、彼は「女」としてのクェスを受け入れた。
また彼の恋人であったナナイは女性であってシャアの「子供」ではなかった。
エディプスコンプレックスの女性が妻子ある男性を好きになったり、すでに恋人のある男性と付き合ったりするのはよくあることである。
ちなみにハサウェイやギュネイは最初からnot眼中である。
彼等はクェスが「父親」の役を求めるには、あまりにも若過ぎ、落ち着きが無さすぎた。
だがクェスにとっては「女」としての自分が受け入れられるということは、同時に「子供」としての自分をも受け入れられるということである。
そのためクェスはシャアに「父親」としての役目を求めるのだが、シャアは無意識の内にそれを感じ取り最終的には彼女を自分の手元から遠ざけてしまった。
何しろシャアがクェスに求めたのは一年戦争で死んだララァ・スンの代わりであり「自分を甘えさせてくれる女性」だったのだ。
そしてクェスは自分が女としても子供としてもシャアに必要にされていないと半ば分かっていながら死ぬことになる。
話は変わるが、私はシャアが本気でララァに「母親」を求めていた、つまりはクェスと同じエディプスコンプレックスであったとは思っていない。
あれは単純に「母親のように自分を甘えさせてくれる女性」という程度の意味だろうと思う。
シャアは一年戦争やグリプス戦役の時には、仮面やサングラスを付けたり外したりすることで、公私の自分(シャア&クワトロとキャスバル)を使い分けているのだが、逆襲のシャアの時点ではすでに何も付けていない。
これは彼が私で動いているというわけではなく、最早仮面を必要としないほどに「公」としての自分が顔に貼り付いてしまっているからなのだろう。
すでにシャア・アズナブルに私はなく、本当にララァ・スンが再来しても彼自身が望むように甘えることはできなくなっているに違いない。
閑話休題。
同じようなエディプスコンプレックスのキャラクターとして私が思い出すのは、手塚治虫氏の作品「ブラック・ジャック」に出てくるピノコだ。
彼女は主人公のブラックジャックに対して、明らかにエディプスコンプレックスの感情を抱いている。
しかしブラックジャックは彼女が幼児の外見をしているというのもあるが、一貫して「父親」としての役割しか演じていない。というか、基本的に彼はティーンエイジャーに対して「男」として接しない。
エディプスコンプレックスの解消には父親に「女」としての自分が相手にされないという経験が必要である。
それによって「子供として貰える愛情」と「女として貰える愛情」が同時に手に入らないとしり、欲望の自制を覚えていくのである。
ピノコの場合はブラックジャックと出会ったことで、やがてそれは解消され「大人」の階段を上り始めることだろう。
だがクェスの周りにはブラックジャックのような存在はいなかったのだ。
もしクェスが出会ったのがアムロやシャアではなく、ブラックジャックだったのなら彼女はあのような結末を迎えることはなかったかもしれない。
もしクェスが単純に「父親」を求めているのなら、アムロの元から去る理由がありません。
アムロの現実論よりシャアの理想論に共感したという部分も多くあると思いますが、クェス自身はその理由を「アムロの傍にはチェーンがいたから」と言っている。
しかし、それを言えばシャアの傍にだってナナイがいたのだ。
ところでエディプスコンプレックス(女性に特定する場合はエレクトラコンプレックスとも)を知っているだろうか。
ちなみに今回の記事では、用語を意図的に誤用している部分もあるので、詳しくは自身で調べていただきたいです。
エディプスコンプレックスとは、噛み砕いて言うと女児が父親に対して性的な愛情を抱くことである。しかしこれ自体は、基本的にはどんな女児も5歳ぐらいの頃に経験する感情ではあるのだ。
要するに「私、大きくなったらお父さんと結婚する」といい、妙におしゃまなお化粧やお洒落に興味抱くアレである。
恐らく、クェスはこのエディプスコンプレックスを何らかの理由で幼少期に解消することができなかったに違いない。
この時期にクェスの父親が仕事、あるいは別の理由で彼女の傍にいなかったか、あるいは幼い彼女の性的愛情に父親が応えてしまったのではないかと思われる。
これが解消されないままに大人になった場合、欲望の自制が難しくなってしまう。
そして男性に父親の役目と恋人の役目を同時に求めるのである。
クェスを見ていると、どうもこのエディプスコンプレックスを解消しないままに思春期を迎えているように思えてならない。
エディプスコンプレックスの女児にとって父親とは「理想の男性」であり同時に「理想の父親」である。子供にとって「父親」というのは自分のそれ以外には存在しないので、当然ながら自分の父親こそがオンリーワンでありナンバーワンである。
だがクェスは年を経ることで知恵がつき、世間を知り、自分の父親が必ずしも最高の存在ではないことに気付いてしまった。
父親に失望したクェスはそこで、家庭の外に新しい「理想の父親であり男性」を求めることになる。
最初に目を付けたのはアムロだったが、彼はクェスの「理想の父親であり男性」にはなれなかった。
すでにチェーンという女性がいるアムロは「女」としてクェスを必要としなかったし、彼にはまだ「子供」としてのクェスを庇護するだけの余裕はなかった。
あるいは別解釈として。チェーンのアムロに対する過剰な依存と崇拝を見ていると、彼女もまたクェスほど重度でないにしろ、エディプスコンプレックスを解消できていないまま大人になったのではないかと疑ってしまう。
その場合、すでにアムロには「子供にして恋人」がいるわけで、クェスにはそこに入る隙間はなかったのである。
次に目を付けたのはシャアだが、彼は「女」としてのクェスを受け入れた。
また彼の恋人であったナナイは女性であってシャアの「子供」ではなかった。
エディプスコンプレックスの女性が妻子ある男性を好きになったり、すでに恋人のある男性と付き合ったりするのはよくあることである。
ちなみにハサウェイやギュネイは最初からnot眼中である。
彼等はクェスが「父親」の役を求めるには、あまりにも若過ぎ、落ち着きが無さすぎた。
だがクェスにとっては「女」としての自分が受け入れられるということは、同時に「子供」としての自分をも受け入れられるということである。
そのためクェスはシャアに「父親」としての役目を求めるのだが、シャアは無意識の内にそれを感じ取り最終的には彼女を自分の手元から遠ざけてしまった。
何しろシャアがクェスに求めたのは一年戦争で死んだララァ・スンの代わりであり「自分を甘えさせてくれる女性」だったのだ。
そしてクェスは自分が女としても子供としてもシャアに必要にされていないと半ば分かっていながら死ぬことになる。
話は変わるが、私はシャアが本気でララァに「母親」を求めていた、つまりはクェスと同じエディプスコンプレックスであったとは思っていない。
あれは単純に「母親のように自分を甘えさせてくれる女性」という程度の意味だろうと思う。
シャアは一年戦争やグリプス戦役の時には、仮面やサングラスを付けたり外したりすることで、公私の自分(シャア&クワトロとキャスバル)を使い分けているのだが、逆襲のシャアの時点ではすでに何も付けていない。
これは彼が私で動いているというわけではなく、最早仮面を必要としないほどに「公」としての自分が顔に貼り付いてしまっているからなのだろう。
すでにシャア・アズナブルに私はなく、本当にララァ・スンが再来しても彼自身が望むように甘えることはできなくなっているに違いない。
閑話休題。
同じようなエディプスコンプレックスのキャラクターとして私が思い出すのは、手塚治虫氏の作品「ブラック・ジャック」に出てくるピノコだ。
彼女は主人公のブラックジャックに対して、明らかにエディプスコンプレックスの感情を抱いている。
しかしブラックジャックは彼女が幼児の外見をしているというのもあるが、一貫して「父親」としての役割しか演じていない。というか、基本的に彼はティーンエイジャーに対して「男」として接しない。
エディプスコンプレックスの解消には父親に「女」としての自分が相手にされないという経験が必要である。
それによって「子供として貰える愛情」と「女として貰える愛情」が同時に手に入らないとしり、欲望の自制を覚えていくのである。
ピノコの場合はブラックジャックと出会ったことで、やがてそれは解消され「大人」の階段を上り始めることだろう。
だがクェスの周りにはブラックジャックのような存在はいなかったのだ。
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