遥かなる昔日。
世界には「不殺」という言葉は無く、敵を倒すということは敵が死ぬことも在り得るということであった。
主人公は容赦なく相手の人生にピリオドを打つ。また悩むとしても、それは自分が信じていた正義が揺らいだ時だった。
もしかすると「不殺」は存在していたかも知れないが、世に溢れる作品の多くはそれを気にしてはいなかった。
だが時代が変わる。
「
るろうに剣心」や「
TRIGUN」などの「敵を殺さない主人公」にスポットが当たる。
*1それは革新だった。
その作品の主人公はどんな窮地に陥っても、決して敵を殺そうとはしなかった。
敵がどんな悪人や殺人者であってもである。
人々はその伝説の聖者のような生き様に感動した。
だがそれは創作世界に一つの波紋を投げかける。
即ち「悪人だから殺しても良いものなのか」という問いだ。
もちろん、多くの人がそれに反論した。
「被害者の気持ちはどうなる!」
「ただの自己満足に過ぎない!」
「本当に生かす意味があるのか!」
それは確かに的確だった。
主人公が殺さないからといって、悪人がそれに感動して自らの生き方を悔い改めるわけではない。
*2主人公が今、その悪人を殺せば防げたはずの被害が発生してしまうのは確かだった。
だが少年マンガの世界では、その反論は封殺された。
なぜならもし「敵が○○したならば主人公は相手を殺していい」ということを認めるならば、それは条件さえ揃えば殺しても良いと殺人を肯定してしまうことになるからだ。
流石に少年マンガで殺人を肯定することは許されない。
*3こうして今までは何となく乗り越えていた殺人という領域に、明確に「不殺」という壁が立ちはだかった。
*4しかし自分や他者の生命に危険が及んだ時まで貫くには、確固たる理由がなければ説得力に欠ける。
また主人公も「不殺」に対するある程度の論理を持っていなければ、それは単なる理想を追い求めているだけに過ぎない。
かといって、全ての作品が「壁」を越える苦悩を描けば、似たようなものを見せられ続けた読者は飽きてくる。
やがて「不殺」を背負う理由を描かず、最初から記号・・・ファッションとして身につけた主人公が登場することになる。
だが確固たる理由を持って「不殺」であるわけではないので、敵が度が過ぎる悪(主人公の仲間を殺すなど)を為してしまえば主人公は感情のままに相手を殺してしまいかねない。
*5だがその後には主人公は「壁」と明確に対峙しなければならなくなる。
「壁」を前にすれば「敵を殺すこと」について是非を出さねばならなくなる。
だから「壁」との対峙を避ける。
だから敵も死なないし、味方も死なない。
悪に「殺されてしかるべき」理由を与えてはいけないからだ。
もちろん与えても構わないが、その上で主人公が信念の無い記号としての「不殺」を貫いてしまうと、読者にストレスと不信感を与えてしまうことになる。
最近よく聞こえる「死なない少年マンガ」に対する不満は、まさにここから出ているのだと思う。
人が死ななくなった世界で、少年マンガはどこに向かうのだろうか。
*1 それ以前にもあったかも知れないが「不殺」を扱った作品の中で、もっともその概念を広めることに貢献した作品であることに異論は無いと思う。
*2 一度や二度なら良いだろう。だがそれを毎回繰り返せば、陳腐になってしまうのは避けられない。
*3 激情などに任せて殺人に及ぶ場合は除く。
明確に「○○なら殺して良い」という論理に従って主人公が殺人に及ぶのはタブー。
これをクリアーする方法として、敵を感情の無いモンスターにするとか、「殺す以外の方法では救えない」ということにする方法がある(
BLEACHとか
D.Gray-manとか)
感情を持ってても人間じゃなかったらOKってのもまだ根強くあるけど(そのくせ人を殺す時には動揺する)、個人的には否定的。
話は変わるけど西遊記とかその元祖だよね。
人を殺すのはタブーだけど、妖怪の血の混じった子供は殺してもお咎め無しだったり。
*4 青年マンガの領域でも、人を殺したことがない人間には壁を越える覚悟と、超えた後のドラマが必要になった。
・・・本当は必要無いのだが「それが必要である」という空気が漂い出した。
最近は大分それが薄らいだようにも思うが、一時期は本当に凄かった。
*5 ここからは話半分に聞いてもらいたい。
なんかここまで書いて分かったけど、特に結論とか無かったので急場で拵えました。